6月5日のふるさと体験学習で、葛野常満(くずのじょうまん)さんのお話を聞きながら、地主(じしゅ)神社と明王院(みょうおういん)の散策をしました。まず、「葛川」という川がないのになぜここを「葛川」というのか、というお話から始まりました。葛川には植物の「葛」が多く、川や水がたまる「淵(ふち)」の別名が「葛(くず)」であり、水をつかさどる水神(みずがみ)さんの「九頭(くず)」につながったようです。そして、南から北に流れる安曇川(あどがわ)の流れが、水の神と言われる竜の形に似ており、水の神である「思古淵明神(しこぶちみょうじん)」を、地元の神としておまつりしたことから、「葛川」と言われるようになったそうです。
また、1200年前に、明王院を開いた相応和尚(そうおうかしょう)が、三の滝で桂の木に抱きつき、不動明王(ふどうみょうおう)を作ったことからも「かつら」と言われるようになったようです。このような由来のある葛川では、古くから水とのかかわりが強く、水をとても大切にしてきたことがわかります。
織田信長もこの鯖街道(さばかいどう)を通ったそうです。各地の寺が焼き討ちに合いましたが、葛川はなぜか燃やされなかったそうです。地主神社は、各村の神社のまとめ役を担っていました。
地主神社はもともと、三の瀧より上にあったのが、600年前に今の場所に移されたそうです。本殿(ほんでん)、幣殿(へいでん)、拝殿(はいでん)があり、最初の二つは国の重要文化財です。お宮さんを意味する「獅子」と仏様を意味する「蓮華(れんげ)」の爛漫(らんま)飾りがあり、神仏併合(しんぶつへいごう)を表しています。明王院の守(まも)り神として地主神社があります。

次に明王院についてお話します。相応和尚が三の滝で修行を行っていたところ、不動明王を感じて、三の滝に飛び込んだら、一本の桂の木にだきついていたそうです。その木を三つに切って不動明王を刻んだのが明王院の始まりで、太鼓回しはこのことを再現しています。三の滝の滝つぼは、仏の世界につながっている神聖な場所で、三宝橋からは聖域となります。行者さんは、比叡山の千日回峰行と同じ格好で葛川に入り、行を行います。行ができなかったら腹を切る覚悟でのぞまれるそうです。
かつて、相応和尚が花折峠(はなおれとうげ)で、シコブチさんの家来の鬼二匹に出会います。相応和尚は、この二匹の鬼を人間にして道案内をさせます。この二匹の鬼が「浄鬼(じょうき)」「浄満(じょうまん)」で、今でも花折峠から、「常喜(じょうき)」「常満(じょうまん)」が行者さんの先頭歩き、案内します。
そして、今も家を継いだら、襲名して、常喜(58代)常満(59代)となるため、家庭裁判所で名前を変えるそうです。1200年前からそれが続いているのにびっくりしました。

太鼓回しが行われる本堂の床には、でこぼこした太鼓の跡がしっかりと残っています。太鼓は二つありました。100年前に使われていたものと、今も使われている太鼓です。直径120㎝くらいの大きな太鼓の皮は、牛の皮からできていて、破れにくく、長野で貼り直しをするそうです。
行者さんは毎年40人ほど来られて、行の回数が多いほど位が上がるそうです。座る場所やご飯のおかずを取る順番も行の回数で決まるらしいです。

明王院の川の近くに、護法尊(ごほうそん)という祠(ほこら)がありました。昔のお金で「護法尊」と書かれていました。なぜ、昔のお金で書かれているのか不思議でした。そこには穴のあいた石がいっぱいあり、その穴に針金のようなものが通され、吊り下げられていました。これは、行者さんが萬行(まんぎょう)できますようにと、石に穴があくほど願ったということからきているそうです。
一生懸命話を聞いても、難しくてわからないこともありました。どうして名前を変えるまでしなくてはいけないのだろうと思いました。まだ、僕にはわからない歴史や伝統、受け継がれてきたものがあるのかなあと思いました。これからも、もっと葛川・久多のことを知って葛川中学校で頑張っていきたいです。

ご当地焼き物開発
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